"言葉"について

ブログを触らずに1ヶ月が過ぎていた。忙しく慌ただしかった。大きな「初めて」がみっつあった。


意図してブログに触らなかったわけではないが、その間に、つらつらと「言葉」について考えた。私たちは日本語を使って話したり、聞いたり、伝えたり、伝えようと苦労したり、伝わらなかったり、笑ったり、怒ったり、傷ついたり、悲しんだりと慌ただしくしているわけだが、さらにはそのオプションとして外国語などというものを学んでみたり、それを使うことを仕事にしてみたりしているわけだが、どんなにがんばってみたところで、言葉は単なるツールである。かたちにならないものを、発する者とそれを受ける者の双方が、できるだけ誤差なくあてはめられるような「式」にあてはめようと試みる。言葉を使うというのはそういうことであり、言葉はその「式」に過ぎない。つまりはコミュニケーションを素敵なものにするためのツールに過ぎないとわたしは常々おもっている。


言葉がツールに過ぎないのであれば、本当に大事なのはそれで「なにを」「いかに」伝えるか、そしてそこに「発する者と受け取る者」が「居る」ことである。


ひとつの例として「外国語を学ぶ」。外国語を学ぶのは素敵なことだろう。しかしそれを使って伝えたい「なにを」が当人のなかにあるのか。それを伝えたい「誰か」が当人のまわりにいるのか。それを「いかに」使えばツールとしての役割がより発揮されるかという省察が当人にあるか。もっといえば「自分ではない者たちと関わっていきたい」という想いがあるのか。それらがなければ、たとえ100カ国語の文法や語彙を完璧に理解し、それが駆使できたところで、単に自己満足-自己完結的な「智慧」に過ぎない。


ツールを使うために、すなわちよりわかりやすい伝達のために、文法や語彙を学ぶことは必須だ。しかしそのツールは、あくまで、生きている自分と他者のためにある。完璧に言葉を操れても、それが伝えるものに中身がなければ、それをもって伝えたい人がいなければ、それをもって他人との関係を期待しない方向へ導いてしまうようであれば、すべては本末転倒。ひどく哀しいことであるとわたしはおもう。


「わたし」が言葉を「選ぶ」のではない。
「わたし」によって言葉は「選ばれる」のである。