人はなぜゆえに

これほどまでに働かねばならないのか。


...更新停滞の言い訳。


そんな日々を送りながら、ふと考えることがある。なぜ私は伊国で暮らし続けているのだらう。


国籍や文化や習慣の違いですべてが語りきれるとは決して思わないが、そしてまた、伊国への留学や移住をキラキラと思い描いている人には申し訳ないが、この国は、時に全身から脱力するぐらい疲れる。さまざまな機関がうまく機能していないことなどは至って表面的なことにすぎず、私が言いたいのは、ここに暮らす人々の精神のありようで、これもまた伊人全員とは決して言わないが、建設的でないことを大声でわめきあいながら何か議論をしているかのように錯覚し、客観的視座のない自信をもって破綻した論理を平気で主張し、2時間後にはそういう行為を自らがしたことすら平気で忘れ、罪悪感をもたず、かと思えばそんな盲目的な自己陶酔の裏には人の目をやたら気にするという自信のなさの裏付けとしか思えない過剰な自意識があり、陰では悪口を平気で言いながら当人と笑顔で話し、強い者になびき、そのあからさまな態度を決して恥と思わず...。


ひと晩書き続けてしまいそうなのでやめるが、伊国で暮らすということは、こういう者たちに「包囲されて」まさに「包まれて-囲まれて」生きて逝くということであり、つまりは同時に、そういう人たちのふるまいをいやでも目の当たりにしなければならないということであり、さらにはそれに憤っても呆れても諦めながら生きて逝くということである。それは私にとっては、この上なくストレスフルなことだ。


世に出ている伊国のエッセイにも伊人の「困ったちゃんぶり」は書かれているが、私が読んだ限りでは、それら記述にはまだ困った伊国への愛が透けてみえる。(少なくとも私から見える)問題は、繰り返すが、何か問題になるような出来事(滞在許可が出ないとか、役所でたらいまわしにされるとか、仕事の報酬が払われないとかetc)があった時のみストレスフルな事態が訪れるわけではなく、日常-恒常的に「あんた、ヒトとしてどうなの?」と思う事態があまりにも多い、つまりこの国で息を吸って吐いて暮らして人と関わるそのすべてのときがストレスになりえてしまうということだ。スーパーマーケットでどうでもいい会話を店員と交わしながら、吐き気がするほどこの国が嫌いになる。路上で見知らぬ人の会話をたまたま耳にして絶望的な気持ちになる。そういうことなのだ。言葉での説明はいずれ不可能だが、いずれにせよ、そこまでこの国を観てしまった私は、おそらく不幸なのだろうし、それでもこの国に暮らし続けている私は、疑いなく、なにか間違っているに違いない。