Giovanni Pascoli

伊国語はそのリズムがいい。名詞や形容詞の語尾が、その語の「性別」と「単数か複数か」によって変化することもあり、韻を踏みやすい、無意識でもつい韻を踏む言語だと思う。それを意図的に配した詩は、だから音的にとてもうつくしい。


某友人からのメールに「Nido di Pascoli」という言葉が使われていたことをきっかけに、Pascoliの詩をはじめて読んでみた。詩人Giovanni Pascoliは、1855年の大晦日にサン・マウロ・ロマーニャに生まれ、裕福な家庭で多くの兄弟に囲まれて育った。しかし1867年、父親が何者かに殺され、彼の人生は一変する。まもなく母親と4人の兄弟も他界し、その後の彼は、ウルビーノのカレッジを経てボローニャの大学へ、文学部に籍を置きながら社会主義無政府主義運動に傾倒。やがて逮捕、投獄という道を辿る。下界に戻った彼は、大学を辞め、政治運動とも縁を切り、高校や大学でギリシャ語やラテン語、イタリア文学を教えながら詩を書き続け、1912年、ボローニャでその生涯を終える。文献曰く、彼は内向的な孤高の詩人だった。その扉を閉ざしていたのは、両親を亡くしたトラウマと、社会にはびこる不条理や不平等への憤りだったという。


かくして彼の詩はくらい。描かれているものの多くは、何気ないのどかな自然の風物なのだが、その何気なさ-のどかさの背後に漂うものが、とてつもなくくらい。明るさを通した影-陰は、よけいにその暗さを増すのである。


けれども。声に出して読んでみるとそれはとてもうつくしい。耳にうつくしく、目にはのどかで、同時に深い影-陰をともなう。これもまた、とても伊国的なものではないかとおもう。