耐える-吐き出す-流す

飲み過ぎたときの話ではない。


祖母の証言によれば、かなり幼い頃のわたしは、何かつらいことがあっても耐える子供だったという。口に出さず、タラランと涙を流しながら耐える。そんな子供が育ち、育ってからも、本当にしんどいときにもごくごく限られた身内だけにしか「しんどいの」と言えない、いわゆる吐き出し下手だったらしい。しかしそれがゆえに、ごくごく限られた身内がまとめて多大なメイワクを被るという事態をしばしば引き起こしてきた。


美学というほどの自覚はなかったが、方々を向いてべらべらと愚痴やしんどさを連ねるのは、どこか「カッコワルイよね」と思っていたからかもしれない。また同時に「そんなこと聞いても誰も愉しくないよね」という気遣いもあったかもしれない。さらに「他人にしゃべったところで別になんも解決しないよね」という諦めもあったかもしれない。とにかく溜めた。いいのだそのまま溜められるなら、いいのだそのまま時の経過とともに流せるのなら。「流す」術を知らないがゆえに、ごくごく限られた身内がまとめて多大なメイワクを被るという事態をしばしば引き起こしてきた。


そして時は過ぎ。耐えず溜めずに吐けばよいのだと開き直ったわたしである。理由のひとつは、どこで何にかは忘れたが、正確な台詞も忘れたが、愛してやまない村上龍氏がそんなことを言っていたからだ。単純だが、まーほっといて。しかしたしかに、想いを言葉にして外に押し出せば、その話題は、具体的に客観のまな板にのる。板にのせればこちらは1歩退ける。そして板の向こうには、なんかしら言葉を返してくれる誰かがいる。して、そうなったら板にのせた「ソレ」をどうさばくかという別の段階に移ることができる。これを頭ン中でひとりでできる器用な人もいるのだろうが、また、頭ン中でできる場合もあるのだが、許容を超えたらもうあとは煮詰まるばかり。それに小出しにすれば、ごくごく限られた人たちにまとめて多大なメイワクをかけることもない。


てな理屈をこねずとも、吐けばラクになる。飲み過ぎたときとまったく変わらない。
して、ひとしきり考えて煮詰まったら、気休め、気晴らし、仕事、酒、おいしいご飯などなどすべてを総動員してなりふり構わずスタコラ逃げる。「とりあえず」逃げる。


という長い前置き-言い訳wとともに、「吐き出す-流す」作業につきあい、多少を問わずメイワクを被りながらも逃亡幇助してくれた友人知人身内すべての方々に、この場を借りて深謝。