的とは?

昨日の文末に「伊国的なもの」と書いてしまったけれども、はてさて「伊国的」「ニポン的」「伊人らしい」「ニポン人らしい」というのは実は「なん」なのか。最近よくそれを考える。


伊人だろうがニポン人だろうが、当然ひとりひとり個体差がある。けれどもその個体差を無視して、それぞれの集団全体に最大公約数的な印象があることもまた事実で、それが語られる場面も多々あり、そしてその印象は、正誤は知れぬが「誰がそれを思うかに関わらず共通している」ことも多い。「ニポン人は勤勉だ」とか「仏人はお高くとまっている」とか「伊人はズルく軽い」とか「露人はアル中」とか「英人はスノッブだ」とか「米人は図々しい」とかね。だから、ときどき各国の小咄やお笑い芸人はこれをネタとして使い、「印象を共有する」観客はそれに笑うことができる。余談だが、最大公約数的な印象をベースにしたご当地ネタはどこでもウケる。


閑話休題。いずれにせよこの類いの印象は、当人たちではない、つまり「外側からその集団を見ている」ひとたちが決めるものだろう。フシギなのは、たとえばナマで動くニポン人を見たこともない人が、ニポンという国を訪れたこともない人までもが、この最大公約数的な印象をすんなりと共有していることだ。これはおそらく噂の流布と一緒で、メディアの力、報道の力、なのだろうか。それゆえに生じた「ワールドワイドな共有幻想」なのだろうか。


しかしさらに別のフシギもある。ある性質をとくに取り出して「ナントカはカントカだ」と言う場合、その背後には「他と比べて、このナントカはカントカという部分で特殊だ」という「比較」があるはずだ。では「伊人はズルく軽い」と言う場合、いったい、どこのだれと比べて?


ここでひとつ、先に挙げた「ニポン人は勤勉だ」と「伊人はズルく軽い」は厳密には同列には並べられないものだろう。なぜなら、「ニポン人は勤勉だ」のほうは、その根拠となるデータが挙げられるかもしれないからだ。たとえば「ニポン人は平均1日14時間働きます」「ほうそんなに働くのか、オラがクニじゃ7時間しか働かないのに」「そりゃそりゃ勤勉だ」というデータに基づく得心もありえる。しかし「伊人はズルく軽い」には、データ的根拠はおそらくない。


だから例を代えよう。「ニポン人はまじめすぎる」。たとえばこんな最大公約数的な印象。こう言われたときチラと思いませんか? いったい、どこの誰と比べて? 何を根拠に? あーたニポンの何をしっているの? だから同じこと「伊人だから」とか「伊国だから」とはあまり軽々しくゆってはいけないのだきっと。


ただそれでも。反面、最大公約数的な印象には、それが最大公約数的な印象になりうるだけの根拠はきっとあるのだ。「ニポン人はまぢめすぎる」といわれたとき、ニポン人であるわたしの頭の中には先述のことと同時に「ま、そー言われるとそーかもね」という想いもまた浮かぶ。きっと、正しくはないけど、あながち間違いでもないのだ。その微妙なラインの上にいかにしてこの最大公約数的な印象は到達した-するのか。それがこの最大公約数的な印象の最大のフシギである。


長々と書いたが、実生活においては、この最大公約数的な印象に救われることも多い。「まぁだってほら、イタリアだからね」「でもさほら、イタリア人だからしょうがないよね」という実はとてもばっくりとしたひとことで、ココロをなぐさめ諦めて嗤えるシーンも多々あるのだから...。