人がひとり叫ぶとき

思い出したくないことを思い出してしまって、髪を洗いながら、道を歩きながら、ご飯を作りながら、ベッドでうとうとしながら、思わず「うぎゃー」とか「きゃあああ」とか叫んでしまうこと。おそらく私だけでなく、おそらく全人類が共有する経験だと思うのだが、不思議なことに他人がこの状態に陥っているのを今まで一度も見たことがない。きっとこれは「たったひとりのとき」だけに起きる現象で、誰かと一緒にいるときは、また別なかたちで発露するものなのだろう。と、勝手に結論づけてみる。


さて。思い出したくないこと。いろいろあるが、今まで自分が叫んだ場面を回想してみるに、私の場合は大きくみっつぐらいパタンがある。ひとつ:仕事での失敗。ふたつ:畏まらなければいけない人の前での失態。みっつ:「しまった、しゃべりすぎた」場面。いずれの場合ももちろん取り返しがつかず、いずれの場合も叫びの後に出てくるつぶやきは「やっちゃったねぇ...」そして続くナハハな苦笑い。


なかでも叫びっぷりが激しい、つまり恥の度合が激しいのは、みっつめの「しまった、しゃべりすぎた」場面の回想時である。厳密に言えば、この「しまった、しゃべりすぎた」も各種分類できて、主なものには「言ってはいけないことを言った」「余計なことを言った」「言い方をまちがえた」「量的に調子にのってしゃべりすぎた」などなどがある。いずれの場合も、後日、大きな後悔と自己嫌悪が襲ってくる。わたしの場合は。


わたしの場合とあえて付け加えたのは、この「しまった、しゃべりすぎた」に対して後悔と自己嫌悪を感じるか否か、そしてその感じる度合は、おそらく人によってまちまちだろうからだ。最近、それに気づいた。ひっくり返せば、言ってはいけないことを言っても、余計なことを言っても、言い方が大まちがいでも、量的に調子にのってしゃべりこくっていても、まったく後悔も自己嫌悪も反省も恥も感じていないように見える人も少なくないからだ。断っておくが、それが悪いと言っているわけではない。これは正誤が判定できるような事柄ではない。実際、こちらが考え過ぎなのだと思わされるときも多々あって、たとえば「言いすぎてしまった」はずの相手が、まったく意に介していないなどなど。つまり絶叫しつつの後悔と自己嫌悪が、実は「あたしのパラノイア」に過ぎないことも少なくないということだ。では一体、しゃべりすぎることへの恥の概念は、どこから生まれ、どこで私の中に刻み付けられたのだろう。


てなことをつらつらと考えつつ、私は今日もまた懲りず絶叫している。「言いすぎてしまった」相手が「どつんと落ちてしまった」からだ。こうなるとこれは考え過ぎでもパラノイアでもなく、堂々と紛れもなく疑いなくわたしが言いすぎたのだろう。さて、始末をせねばの...。考え過ぎと言われようが、パラノイアと言われようが、この後始末の大変さを思うと、やはり口はつぐむに限ると思ってしまうわたしなのである。