眼を閉じて/Ad occhi chiusi

普段はメンソール系の煙草を愛飲するわたしだけれども、読後、いや読中につい、日本から土産用に持ってきたマイルドセブンの封を切ってしまった。「誰も煙草をやめられやしない」という一行目が暗示するように、小説中、煙草についてしばしば語られるのだが、別にそれがテーマの小説ではない。じゃあテーマは何?と聞かれると、しばし答えにつまる。法廷サスペンスとも言え、人間の哀しさを綴ったドラマでもあり、ひとりの男の再生物語でもあり。ちりばめられたそれらひとつひとつのエピソードとディテールは、単独でもしっかりと立ちながら読み手になんらかの感情を残し、同時にひとつの小説をかたちづくる「部分」でもある。つまりは、これはとても素敵な作品ということだ。


現代小説を読むと、その国の「いま」を覗くことができる。この小説のおかげで、私は自分がいまいる国のことをまた少し覗いた。しかし素敵な小説というのは同時に、いまでも昔でもニポンでも伊国でも、読み手に響く何かを内包しているものだと思う。だからこそ、時を経ても、それらは異国語に「翻訳される」のだ。きっと。


邦訳を読み終え、すぐに近所の本屋へ出向いて原書も買ってしまった。が、余計なことだったかもしれない。翻訳を感じさせないすばらしい訳がついているのだから。ニポンでは海外小説の出版部門がどんどん縮小されているという。売れないから出さない。悲劇的な間違いだとおもう。


眼を閉じて/Ad occhi chiusi
ジャンリーコ・カロフィーリオ著/石橋典子訳
文春文庫/2007年/ISBN-10:4167705443