オトナの関係の"子供たち"

いわゆる「めんどうくさくなく-気軽で-怒ったり泣いたりしなくていい」といった関係に『オトナの関係』という呼称を与える人がいまだ生息していたことに素直な驚きを覚えた。1980年代前半に死滅した 精神的-流行りモノ だと思っていたからだ。これは「趣味を見つけたり-会社を変えたり-旅をしたり」なんてことに『自分探し』などというたわけた呼称が与えられていた1990年代半ばの精神的-流行りと同じようなものだ。


『オトナの関係』は流行当時、とりわけ恋愛関係に使われるのが主だった。言い換えればつまり、めんどうくさくなく-気軽で-怒ったり泣いたりしなくていい恋愛ができるのが『オトナ』なのだと。例によってメディアがつくったこの呼称を多くの人が信じ、だからこそ精神的-流行となりえたわけだけれども、そのせいで『大人』という言葉の意味が崩れ、結果、自分を大人だと思い込むアホなオトナがさらに増えた。

  • 子供のときは、大人になればみんな大人になるのだと思っていた。

長年の知人Tは、人生のある時点でそう思った(きっと彼の目の前は真っ暗だったはずだw)と話してくれたが、このTのつぶやきというか嘆きは、話を聞いた時点からずっと、わたしの頭のなかに残っている。実際、大人になればみんな大人になるわけではない。残念ながらぜんぜんない。


けれどもここでひとつの疑問が生じる。ぢや「大人になる」とはどゆことかと。この「大人になる」は「普通」という言葉と同様に、とーてもばーくりした言葉なわけで、だとすると結局は、各人が「なにが大人か」を決めるしかないちうことになる。だから「大人」ってのは各人各様いろいろあっていーわけだけれども、となればつまりはこの「なにが大人か」を決めるという作業、決めようと煩悶する作業が各人の「大人への第一歩」なのだとわたしなどは思うわけで、上の友人Tの言葉を使わせていただければ:

  • 子供のときは、大人になればみんな大人になろうとするのだと思っていた。

ということになる。そして、そういう頭を使わずに今日まできた、オトナの顔したモノたちが巷にはあふれている。


かつて流行った『オトナの関係』は、「大人」に安直な定義を与えることで、「こりゃ便利」とそこにのっかった人々から思考する苦労とチャンスと義務を奪った。そして『オトナの関係』は、そんな己の責任をとることもせずにとっとと死した語となってしまい(先述したとおり細々とは生息しているようだけれども)、あとにはたくさんの "子供たち"が残った。とても迷惑している。


大体。恋愛に限らず人間関係などというものは、まぢめに取っ組めば、面倒くさくて-労力も時間もかかり-腹も立てば鼻水も流す もののはずである。なにせ相手は他人なわけで、他人が自分とは違う思考-行動様式をもっているということは、誰がどう反論しても変えられない「絶対の事実」だ。そしてまた、もともとひとりなだけに、ひとりっぽっちではさみしくて生きて逝けないという不便なニンゲンさんである。これは「わたし」だけではない「相手も」またそういうニンゲンさんだ。「ヤだねぇ、そんなのクールじゃないね」という方は、おそらく強靭な精神の持ち主であろうから、たった独りで生涯山にでも籠っていただくとして。


とまれ。こちらもあちらも"さみしい"ニンゲンさんで、同時にこちらとあちらは違うニンゲンさんである。それがちゃんとわかっている大人は、「めんどうくさくなく-気軽で-怒ったり泣いたりしなくていい」といった関係を『オトナの関係』と呼んだりは決してしない、いや、できないだろう。