自分のペエス

自分が日ごろ生活している場をしばしのあいだ離れると、台詞としてよく使われる「自分のペエス」というものの実体のなさを実感する。もう少し詳しく言えば、「自分の」などという所有形容詞(だっけか?)がついてはいるが、実は生活のペエスとは、自分が「決める」という能動態を使って表すよりも、自分をとりまく環境によって「決められる」という受動態をもって表すほうがシックリくるのではないか...などと思うわけである。


2週間ほど隠遁して住処へ戻ってきてみたら、何をするにもどうにも居心地が悪い。効率がよくない。たいしたことをするわけではなく、水を飲むとか食べた煎餅の袋を捨てるとか外から帰って着替えて寝転がるとか風呂からあがって身体を拭くとか、ふつうはあまり頭を使わず、意識せずともできることがどうにもうまくできない。いや、そういった些細なことのほうが「よりいっそう」うまくできない。


たとえば「喉が渇いたな」と思ったとき。このパソコンが置いてある机からキッチンまで約2メートル。わたしはそこを2往復してしまう。まず、水のペットボトルをとりにいく。机に戻る。コップがないことに気づき再び台所へ。机に戻る。つまり「水を飲む」に必要な事柄を、まさに水が流れるようにスムーズに、意識せずに行うことができないのだ。これが水ならまだよい。「CDをかけながらワインを開けて飲もうかな」などと思った日には、まずどこへどう動いたらよいのか、こんがらがってフリーズする。


おそらく、2週間離れていた環境(住処)に、わたしの身体がまだ慣れていないせいだ。もうしばらくして身体が環境に慣れれば、またフリーズせずともワインが飲めるようになるのだろう。ということは、私が動くときに、その作法を決めているのは実は「私」ではなく「環境」なんじゃないんだろっか。と。


というわけで、自宅にいながら疲れている。


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