要領.というもの

「要領がいい-わるい」という言い方があります。あたまにつくのは大体「仕事の」だったり、おしりにつくのは大体「人」だったりします。では「要領がいい」と「要領が悪い」の差は、どこで、でるのか。歯を磨きながらそんなことを考えました。


生きていると、しなければいけないことというのが沢山ありますが、1日は便宜的に24時間と決まっていて、その間に、しなければいけないことはしなければいけないのだけれど、しなければいけないことをとっとと片付けてしたいことをするほうが、大抵のひとは幸せです(もちろん例外もいます。脇に置きます)。そこでおそらく「要領よく」何かをすることが求められたりするわけです。そしてそのときに問題となるのは「何をするか」ではなく「いかにするか」。


では「いかにすると」要領がいいと評される仕事ができたり、要領のいい人に見えたりするのでしょう。それにはどんな能力が必要とされるのでしょう。歯を磨くのに疲れてきたので、わたしの結論を書きますね。ポイントはふたつ。


まずは「いかにすると」:
A-1. 目的を見失わないように、正しい情報をできるだけ集める。
A-2. 目的へ早く着けるように、できるだけ最短距離を選ぶ。


そのために必要な能力とは:
B-1. どこに行けば必要な情報が得られるかを知っていること。あるいは想像できること。
B-2. できるだけ多くの道順を想像できること。その中から1本の「最短距離」を想像できること。
   そしてそれを必要に応じて、都度修正できること。


B-1に関してですが、これは単に「博学」というのとは違います。必要になったそのときに、どこへ行けば、誰に聞けば、必要なものが得られるかということを瞬時に広く想像できるのであればヨイ。むしろ記憶する力を節約できるゆえ、好都合でしょう。大体、どんなに博学だといったところで、人間の頭の容量などたかがしれており、たった1冊の本でも、丸々正しく覚えることなど普通は不可能です。


B-2の1番のキモは「都度修正ができる」という部分です。わたしたちがしなければいけないことの大半は、自分ひとりでは解決/完結せず、他人に邪魔されたり、環境に塞がれたりという事態がちょくちょく起こり、当初の予定通りになどいかないようになっている。そして大体、どんなに「先が読める」などといったところで、人間の想像力などたかがしれており、たった1人の他人の行動すら、正しく予測することなど普通は不可能です。
またこの「都度修正」には、「頭がまわらなくなったら、とっとと寝て明日にまわす」とか「辞書を10分みててもわからなければ、とっとと誰かに電話する」とか、「働きすぎて吐きそうになったから、酒飲んで吐いて気分を変える」とか、そういう細かいことも含まれます。大体、どんなに体力に自信があるなどといったところで、人間の身体には限界があり、2晩も徹夜したら、頭も目も腰も思考能力も想像力も何もかもがすべてが謀反をおこし、そこへ「意志」だけで立ち向かったところで、ねぇ。


結論としては、このBのふたつの能力をもつ人、それに基づいて行われた事柄が、最終的に「要領がいい」と評されているのではないかと。してもちろん、逆は逆の評価になると。わたしは歯をこすりながら思ったわけです。


ただ、こんなにずらずら書きましたが「要領がいいこと」が必ずしも「いいこと」であるとは限りません。たとえばニポンの場合、仕事のお話の中では「要領がいい」はおそらく褒め言葉ですが、私生活では「要領がよ-すぎる」などと嫌われ者のための形容詞になったりします。


そして、ところ変わればナントヤラ、わたしの生きている場所では、約束の期限は遅れて当たり前、列は長くて進まないのが日常、今日できることなら明日でもできるさと、お仕事の場面では「要領の善し悪し」が問われる場面すらそうありません。一方、車をぶつけて謝るのはアホであり、二股かけてバレるのはマヌケであり、通らない筋も通してやるさと、私生活の場面では、何枚もの舌やら想像力やら知識情報やら、とにかく持てるだけのものをフル稼働させる。そう、伊国では、要領よく仕事をしても誰も褒めちゃくれませんが、要領がよくないと生きてはいけないのです。


伊国に住みつつニポンと仕事をする。すなわち、仕事でも日常でも「要領のよさ」が求められたりするわけで。通常の2倍。そりゃアナタ、疲れますわ。