ただいま発散しております

久しぶりに、正確に言うと15年ぶりに「スゴイなぁ」と感嘆しつつ嗤ってしまうような手紙(メール)をもらった。どうスゴイのか。


書いてあることが間違いだらけだというわけではない。私はこれを30回ぐらい読み、むしろ「なるほど」と思う部分もあることがわかった。そうではなく、その「なるほど」と思わせる部分すら「あえて伝えたくないのか」と受け手に思わせてしまうほどの「ニポン語-伝えかたの不用意さ」がスゴイ。


約めていえば3点。
1. ニポン語が過剰-極端で、
2. 当人にわかるはずのないことまで「決めつけ」ており、
3. 「言わなくてもわかってほしかった」的な思いを攻撃の材料として使っていることに「おそらく」気づいていないこと。


これらを短く説明すると。
1. 「全く...なかった」「唯一...だった」といった物言い。冷静に事実を振り返れば「全く」でも「唯一」でもなかっただろうことは容易に想像できるからだ。


2. 「誰彼が○○なことをした」はいい。「誰彼が○○なことをして××な思いをした」もいい。しかし「誰彼は○○なつもりでそれをしたと言っているが、違う、誰彼は××というつもりでそれをしたのである」と断定するのは根拠のない決めつけだ。他人の「意図」は他人の範疇にある。それは他の人にわかるはずがない。しかも、この手の決めつけへの反論には多くの労力を要し、それもまた水掛け論の徒労に終わることが多い。


3. たとえば「仕事をしていて当然わかるべきことを相手がわかっていなくて憤る」はいい(そこにあるのもまた事前のコミュニケーション-経験あってこそ正当化される期待だが)。その後の具体的な話し合いがあれば、コトは建設的な方向に向かいうる。けれども、自分が何を欲しているのか伝えることをせずして、「相手がヒトとして自分が心地よい言動をしてくれない」ことをベースにヒトを攻撃をするのは、そしてその攻撃を正当化するのは傲慢だ。そんな沈黙した期待に応えられるヒトはいないし、それでも期待をかけるのであれば、それが叶わないことを引き受けることも期待する側の範疇にある。しかしこちらもまた、事後に伝え合うことでコトは改善しうる。というか、事後に伝え合うことでしかコトは改善しない。しかし、送られてきたメールには、私が返事を出すことを拒む一文があった。


総じて眺めると「おそらく」相手はただ喧嘩が売りたかったのだろうか。関係を切りたかったのだろうか。はてまたそんなつもりはなく、単にニポン語が不自由なのだろうか。あるいは「相手にできるだけ伝えよう」「相手が何を言っているのかできるだけ理解しよう」という努力、すなわち人間関係を築くという努力よりも「攻撃して相手を凌ぐ(いだつもりになる)」ことにプライオリティがあるということなのか。はて(これらは「決めつけ」ではない。文章の呈する通り「疑問」である)。あれだけの量の言葉を投げられても、できるだけ受け止めようと30回読んでも、私には先方の「意図」がわからない。そもそもヒトとはそんなものなのだ。だからして、過剰な期待をかけるより、できるだけ伝え-受け止める才を磨くほうがシアワセではないのか。


本来なら当人と話すのが建設的かつ健全かつ親切で私のためにもよいのだが、先方にはもろもろを指摘する(される)必要もなさそうで、そんな余地もなさそうで、またこちら側もそんな労力をかける気にならないので、しかしわたしとて口を封じられたままでいるのは気分が悪いので、「わたし個人の」ブログで「発散」させていただいている。


余談だが、私は十数年前に某人と上のようなやりとりをさんざんして、少しオトナにならせてもらったw。感謝してます。