自由業の忙中閑

自由業という言葉を聞くとき「いったい何が自由なものだらう」とおもう。たしかに働く時間は決まっていないが、逆を返せば忙しいときは働く時間以外の時間はない。どんな仕事を受けてどんな仕事を受けないか、揺らがぬ大御所で仕事あたりの単価が高ければ、そういう選択の自由はあるかもしれないが、そんな幸運かつ能力に恵まれた人はほんのひとにぎり、残りの下々には選択の自由などほとんどない。食っていかねばならない。そして「仕事がこなきゃ食っていけないわん」「来月は仕事(=即収入)がないかもしらん」という不安と常に差し向かい。それが世に言うフリーランス、自由業であると歴15年のわたしはおもう。


しかし。15年もやっているとその不自由さにも不安定さにも恒常的な不安にも慣れる。慣れるすなわち、仕事がないときは大いに羽を伸ばす。それが屈託なくできるようになったのは、そう昔のことではない。閑の使い方はいまだに下手である。


大いに羽を伸ばす。さていかに。もともと書きものを生業としていて、現在も言葉を扱って食っているわたしだが、仕事のないときのひとり遊びも「読む」か「書く」かに限りなく限られる。それをしていないときの大半は「時差ボケたクマのように眠っている」。とまれ、本を読んでいるわたしというのはイコール「怠けてるわたし」で、怠けているので私的にはそれもまた休息でよいのだが、前回ニポンに帰ったときに、ふと不安になった。「わたしってば、生きて逝きながら眼と頭のごく限られた一部しか使ってないのぢゃないか」。もちろん、友達と酒を飲みながらくっちゃべるのも私の日課だが、自由業の閑は夕方以降に限らない。すなわち日中の大半はひとりでいるわけである。その大半の時間を「読んで」「書いて」している。なかなか健康に悪そうだ。


ここで脱線。あなたの身体の器官から過重労働で訴えられたとき、あなたが間違いなく有罪になる原告はいずれの器官か(宴の始末/京極夏彦著より抜粋変形)。わたしの場合、有罪確定率が高いものから「眼」「肝臓」「左脳(優れちゃいないがw)」「耳」「肺」「口」「胃」「両手の十指」。その他の器官の訴えは、ためらいなく却下できる。つまりほとんど使ってない。


前置き-脱線長くなったが、そんなわけでオカリナを吹いている。誰もが嗤う。「暗いわね」と。しかしこれがけっこう愉快だ。美術的な才能が皆無のわたしは、眼と頭を使わないとなると音楽しかない。して「独習できて、独奏できて、大げさな楽器がいらないもの」と考えたとき、消去法で残ったのがこのオカリナさんだった。愉しい。何よりである。しかし吹きながらふと気づくとたしかに行動としては暗い。暗くて暗くて、そのあまりの暗さに独りで涙が出るまでわらった。


腹抱えて嗤うひとりの日曜。ここまで突き抜けられたら自由業するのももはや怖くない。