つよくやさしくおもしろく

年明けにすぐ誕生日を迎える私は、師走を迎えるといつも「ああこれでまたひとつ歳をとるのだな」とおもう。1ヶ月余りのフライングなのだが、師走は文字通り実際も走り去る。だからかもしれない。


不惑が近くなっても惑ってばかりだが、それでもある程度の歳を経ると、若い頃に比べるとわずかではあれど自分を客観的に見られるようになる。気がする。そして「わたし」の中には、これまで数十年間の中で出会った人たちの置き土産のようなものが、そこここに残されていることにふと気づいたりする。


それは「想い出」とは違う。出会って、縁があって、時間をかけて体当たりで関わるなかで、結果的にわたしに取り込まれた何か。それは「感化」とも少し違う。わからない他人と、わからない自分と取っ組み合って、ときに傷つけ傷つきながらわたしに刻まれ、時間をかけて「わたしというマシンを走らせるための"言語"」に翻訳された何か。それにふと気づいたとき「ああこれがわたしの宝だなぁ」としみじみとおもう。それに比べれば、仕事のキャリアや社会的地位や評価やお金なんて、わたしにとってはクソみたいなものだ。


ただもちろん、残念なことに、どの他人に対しても体当たりで関われるわけではない。逆に言えば、体当たりで関わるという幸運(だとわたしはおもう)に恵まれる他人は、一生のうちでもおそらく数えるほどしかいない。こちら側に、そうしたいと思う気持ちや興味や気力や時間がない場合もある。また、こちら側にそれがあっても相手側にないこともある。それ以前にそもそも、他人とそこまで体当たりで関わることに、なんら「おもしろみ」を見いださないひともいる。こちらが体当たりでいくと壊れてしまうひともいる。みな、それぞれの自由ゆえ仕方がない。きっとそういうときのために(も)「口当たりのいい言葉」とか「本音を隠す笑顔」とか「実はただ時間をなんとなく一緒に過ごしているだけということから目をそらさせてくれる酒」といった社会的なツールが、わたしたちには与えられている。


だからこそ宝だと思える。わたしの中に残された「置き土産」たちを。体当たりで関わることをおもしろがりながら、ときに傷つけ傷つきながら、カッコ悪さも弱さも目の当たりにしながら引き受けながら、それでも他人と関わることをやめず、辛抱強く、わたしの中にそれらを残していってくれた-くれる人たちのことを。そしてこれからも、歳をとるごとに皮膚の乾きは増していっても、それを宝だと思い続けられるだけのしなやかさを持ち合わせていたい。つよく、やさしく、おもしろく。