の"家族"

いわゆるいっぱしの大人で(定義はばっくりしているがまぁ)、とりたてて用もなく、20年来の幼な友達(たち)と未だに週1回は必ず会うという人がニポンにはどのぐらいいるだろうか。職場の同僚ではない特定の友人(たち)と、週に3〜4度は顔をあわせる-共に遊ぶという人がニポンにはどのぐらいいるのだろうか。決まった友人(たち)と、とくに用件もなく日に何度も電話をしあうという人はどうだろう。


おそらくほとんどいないのではないかと想像する。好むと好まざるとに関わらず、おそらくニポンでは「そんなこと」をしていたら、日々の生活がうまくまわらないだろうからだ。アレもしなきゃ、コレもしなきゃ、アレをするにはこの人と、コレを話すにはあの人と会わねばならなかったりして、結果、用もなく特定の人(たち)とだけベッタリしているヒマはないからだ。


しかしこの国には「そんなこと」をして日々を暮らす人が、おそらくかなりたくさんいる。時間を見つけては同じ面子で集まって、それぞれがその日にあったことなど語り、全員がしっているアノ話の続きに盛り上がったり、全員がしっているアノヒトのニュースに顔色を変えたり。もちろんそこにいる人たちはある種の親密さでつながれており、そこにはお互い昔から知っている気安さがあり、その場に「だけ」通用するルール「さえ」ちゃんと押さえておけば間違うことはなく、そこにいれば誰かに不意に傷つけられる心配もなく、万が一、誰かを怒らせるようなことがあっても、誰かに腹を立てても「明日になれば仲直りができる」という暗黙の了解がある。これはもう、ひとつの"家族"と言ってもいいだろう。


そうやって拡大した"家族"の内側で、生きて逝く人が、この国にはおそらくかなりの数いる。悪いことではないのだろう。やにわに予想外の方向から枝を折られたり、会ったばかりの奴から思わず根っこをブッた切られたりする心配がなければ、そしてまた、どっかで枝を折られても根を切られても、すぐさま囲いのなかに舞い戻って兄弟株にヨシヨシ、ナデナデとしてもらえれば、ヒトという木はきっと大きくは曲がらずにスクスクと伸びて逝く。


この国の多くの人たちが好きでそうしているのか否かは知らぬが、「そんなことになっている」ひとつの外的要因として、ニポン(のとりわけ都市部)と比べて、人々の活動域が「狭い」ことは関係しているだろう。町が狭ければ、会うこともたやすい。行く場所も限られる。共通の知人友人も増える。たとえ喧嘩をして二度と会うまいと思っても、否が応でも会ってしまう可能性が大きく、たとえ喧嘩をして二度と会わぬなどと言われても、労せずともまた会えてしまう可能性が大きい。つまり関係修復の必要があるときも、その最も難しい第一歩めは「狭さ」が自ずと与えてくれる。して、そんな活動域の狭さにより、その内側はどんどん濃くなり、"家族"が出来上がり、というか家族がそこまで"拡大"し、そこに腰を落ち着けることで、さらに活動域は広がりを必要としなくなっていく。そして木はスクスクと伸びて逝く。


しかし。そうしてスクスクと伸びる木たちの多くに、"家族"の外側との関係を「築いていく」能力や想像力の欠如を見てしまうのは、わたしが曲がっているせいでしょうかね。