を思い出すとき

バスに乗り継いで郊外へ出た。ミラノは小さな街ゆえ、20分もバスに乗れば風景が変わる。町中ではないが田舎でもない。賑わってはいないが寂れてもいない。「郊外」というのは「都市の周辺」のこと、ひどくばっくりとした境界-帯なわけで、その風情を言葉にするのは難しいが、それでも郊外としか呼べない風景や空気感というのがあるとわたしは思う。無理やり例をとるなら、国道17号線で栃木あたりを走っている風情といえるかもしれない。そしてわたしは、その郊外が好きだ。


日ごろ使わないバスに乗り、日ごろ使わない道を行き、日ごろとは違う風景を見る。真夏のような日差しが顔を覆い、赤信号で止まると中央分離帯タンポポの群れが見える。乗客はわたしひとりだ。目的地へ行くのにどこで降りればいいのかよく覚えていない。バスが正しい方向へ向かっているのかもよくわからない。それでもわたしはヘッドフォンを耳に突っ込み、足をぶらぶらさせながら、タンポポの群れに紛れている桃色の花の名前を思い出そうとしている。桜草。青いのはオオイヌノフグリ。バスが再び走り出し、ふと目をあげると背後へと流れる店の看板も道路標識もすべて伊国語。まさにそんなときだ。自分が異国にいることを思い出すのは。


異国である程度の時間がたつと、いちいち異国を実感しながら日々を送ったりはしない。言葉がわかるからというだけではない。おそらく「どの時点-段階まできたら緊張し-慌てなければいけないか」がだんだんわかってくるからだ。裏を返せばつまり、あとの残りはだらだらと弛緩していられる。そのときの自分の内側は、ニポンにいるときと変わりはない。だから、異国で時間がたてばたつほど、異国は実感するものではなく「ときどきふと思い出す」ものになる。だらけ惚けているときにフと目をあげ、そこに伊国をみる。頭が一瞬ゆらぐようなその感じを愉しむためにも、わたしにとって「郊外」はすてきなのだ。