漢字の感じ

伊友人A-2は、ニポンで暮らし、ニポンで働いたことがある。ニポン語をほぼ流暢に話す。特殊な言葉を使わなければ、こちらの言っていることをほぼ理解する。バイリンガルではないのに、単なるノリで受けたTOEICでほぼ満点をとっている(!)彼は、もともと外国語の習得能力が高いヒトなのだろう。しかし、そんな彼が、もう何年も前から漢字に泣いている。


彼は、わからない漢字を見ると「悔しくてイライラする」のだという。それは「ニポン語でわからない単語がある、意味のわからない文章がある」ときに持つ感情とは、ほんの少し違うものなのだという。そして、その感覚は、ニポン人や中国人や韓国人には決して共有できない感覚だろうと。と言われても、彼が何を言いたいのか長らくピンとこなかった私だが、先日、彼がひとつの例を出してくれたおかげで、ようやくなんとなく腑に落ちた。曰く、彼ら欧州人が漢字を見るときの感覚は、専門外の人が、まだコンピュータが教室ぐらいでかかった時代の、つまりはC言語が発明される以前の、コンピュータ言語を見るときの感覚と似ているのだと。


無知な私は、当時のコンピュータ言語がどんなものだか咄嗟には頭に浮かばなかったのだが、彼曰く、それは「ひとつひとつが"意味"を持つ"デザイン"のようなもの」であったらしい。それぞれが持つ意味を知っている人にとっては、それが何を伝えているのか理解できるが、知らない人にとっては、それはただの"デザイン"でしかない。たしかに、表意文字である漢字にも同じことが言える。つまり彼のイライラの素は:
1. ただの絵にしか見えないものが、実は対話をできるレベルの意味を内包している。
2. それが実はただの絵ではないことを「知っている」のに、何を意味しているのかまったくわからない。
このふたつが両立しているがゆえ、なのであった。


しかし後日。せっかく例をあげて説明してもらったが、友人A2の期待に反して、わたしは当時のコンピュータ言語の羅列を見ても、意味はまったくわからなかったが「コレはコレ」という感覚しか持てなかったw。私の側に「何が書いてあるのか理解しよう」との思いがなかったせいもあるだろう。けれども、おそらくそれだけではない。わたしたちニポン人は、表意文字という概念を、意識することなく身体にすでに取り込んでいるからだ。平たくいえば「意味はわからないけど、このデザインの羅列が何かを意味しているということ自体はべつに気持ちわるいことでも特殊なことでもない」。ひっくり返すと、友人A2はじめ、アルファベットやそれ以外の表音文字しか持たない人たちにとっては、文字そのものが、単体でそこに置かれていても、すでになんらかの意味を発しているという表意文字の概念を理解すること自体が、まずもって高い高いハードルなのだ。


かてて加えて、漢字を一瞥したときに彼らはそれを「デザイン」だと認識する。つまり、彼らにとって「漢字を覚える」「漢字の書き取りをする」という作業は、「デザインを手本通りにそっくり写し取る」に等しい。感覚的には「外国語を学ぶ」というよりは「美術の時間」なわけだ。漢字は画数も多いから、そりゃそりゃ大変でしょう。


ここ数年、ミラノの街では漢字をよく目にする。Tシャツの背中や胸に、若者のタトゥーに、店名に。でもその多くは、わたしたち漢字民族が見ると、まったく意味をなさない羅列だったりする。いいのだ。彼らにとっては漢字は「文字」ではなく「デザイン」なのだから。つまり「意味」ではなく「美」なのだ。おそらく彼らの中にはそれが「文字であること」すら知らない人も多いのかもしれない。そんな彼らが、実はそれが文字であり、何かを意味するものであることを知り、その意味を知りたいと思い始めたとき、友人A2のようなイラだちの日々が始まるのだ...。