日常が常でなくなるとき

ヒトはいつか死んでしまうとみんな知っているけれど、死んでしまうという事態が具体的に目の前に見えてくるまでは、死んでしまうことなど実はあまり考えない。というよりむしろ「死んでしまうことなどありえない」かのように暮らしている。違います? それとおそらく一緒で、日常が日常である間は、日常が日常でなくなるときのことを考えたりはしない。あるいは、家族でも友人でも恋人でもなんでもいいのだけれども人間関係が新たに始まるときに、その人間関係が終わるときのことを想像したりはしない。


正しいのだとおもう。始まった何かに終わりがくることは、たぶん例外なく「絶対」なのだけれども、常にいつも恒常的に「終わるとき」のことを考えているのは不自然だ。それが不-自然だからこそ、みんな哀しくなりすぎることなく、今日もまた暢気に酒など飲んでいられる。


そしてだからこそ、いざ「終わり」がきたときは哀しい。「その」終わりが哀しいというのも、もちろんあるのだけれども、「その」終わりを契機にして、始まった何かには必ず終わりがくることを思い出してしまうからだ。何かが終わるとき、だから「これまでに終わったたくさんの終わり」を思いだして、そして「これから終わるだろうたくさんの終わり」を思いだして、いっぺんに途方にくれる。


前にも書いたのだけれども、異国に暮らすと、おそらくニポンにいるとき以上にバイバイと手を振る場面がたくさん訪れる。それゆえに、日常が日常である間の「なんとなく- どうでもいいけど - のほほんな感じ」のありがたみに気づかされる局面も多かったりする。


またひとつお別れです。