『つい』

この夏、とある人と怖い話をしました。「友人というものを『つい』カテゴライズしてしまうことの是非について」。もっと正しく言えば「人前でしゃべっているときに、見知っている人あるいはつきあいのある人を『つい無意識に』カテゴリー分けしているような表現を『つい』してしまうことの罪ついて」。わかりにくいですね。わかりにくく書いてます。怖い話だからw。でも、これを自覚せずいると、人は知らず知らずのうちに人を傷つけているかもしれない。と。


も少し噛み砕くと、世の中には、自分が見知っている人あるいは自分とつきあいのある人を、まとめてすんなり「友人」と呼べるタイプと、それを「友人」「知り合い」「仕事仲間」「知り合いの知り合い」「友人の知り合い」等々、細かくカテゴリー分けしてしまうタイプがいるような気がして、その後者は「いったいどうなの」という話をした。わけです。ただ、誤解を避けるために言っておくと、観察するに、この後者とて普段から意識的に「あんたはこっち、あのひとはあっち」と傲慢に人々を選別しているわけではない。しているわけではないのだけれども、たとえば第三者が「あなたの友達の○○がね」と言いながら、あなたが知っている人の話をはじめたとき、咄嗟に反射的に間髪入れず「え、ああ、友達っていうか知り合いね」とか「ああ、○○ちゃんの友達ね」とか、『つい』要らぬ訂正をしてしまったり。する。


本当に「要らぬ」訂正です。誰かを積極的に遠ざけたいという意図的な戦略でない限りは、対外的にそのカテゴライズを言葉で示すこと、自分が実は [カテゴライザー] であることをバラすことは、おそらくまったく無意味です。人を退かせたり、人に疑心暗鬼を抱かせたりする以外に、それをすることの効果はおそらくない。それでも『つい』分けたくなってしまうのなら、それはまあ仕方がないので、でもならば心の中に留めておけばよい。のですね。この生きにくい世の中で、つつがなくみんなシアワセに生きていこうと思うのであれば。


最後までわかりにくいですね。わかりにくく書いてます。怖い話だからw。とにかく、わたしたちは、そんなことを語りつつ深く反省と懺悔をしました。そもそも「友達」「知り合い」「仕事仲間」云々のカテゴライズ自体が、とてつもなく無意味なものです。「私たちって友達だよね」という言葉や確認作業が無意味なのと同じ理由です。そこまでわかっているのなら、ならばなぜ『つい』分け、『つい』口にしてしまうのか。その『つい』の裏にはどんな意図が隠されているのか、わたしたちが次に会った時には、それを話題にしようと思います。