AMORI IN STAZIONE#2

「駅内の愛」タイトルを直訳するとこうなるのですが、もし邦訳をする場合は違う訳がつくんでしょうね。これじゃまるでハーレクイン。でもとりあえずベタに訳すとこうなるわけで、タイトル通り、小説の舞台は駅。名も無い駅(途中で名前はさりげなく出て来たりするんだけど)。


 駅というのは人が流れていく場所、通りすぎていく場所です。どこかに発つどこかへ帰る、どこかに発つ誰かを見送るどこかへ帰る誰かを待つ。いずれ人が駅に赴くのは、往々にして、別の「どこか」へ到着するために過ぎません。ただ、そんな駅に棲んでいる人たちがいる。住んでいるのではなく、棲んでいる人たち。つまりは「どこか」を持たない人たち。大多数の人が足早に流れ通過していく場所に、彼らは澱みをつくります。この本は、そんな人たちを、ただひたすらに描写した小説です。


 駅に棲む人たちが生きている時間は、長くて小さくて空っぽで切なくて独りで、トホホって感じで、ときに足りなくてときに過剰。でも、そんな器の中で、器から決して出ることはできずに、じたばたしながら、自分の力だけではどうしようもない、ちっぽけなことで、おもしろがったり哀しかったり不安になったりホッとしたりしながら、昨日も今日も明日もなんとなく生きている。そしてあるときポックリと死ぬ。こう書いてしまうと、彼らの生きている時間に、あまり希望はなさそうですが、実はそんなに悪いもんじゃない。そう思いました。というか、良かろうが悪かろうが「そーゆーもんじゃなかろうか」と。私にとっても、誰にとっても。


 駅に棲む人たちの間では、わたしたちの身の回りに日常的に起こる当たり前のことが起こります。縮めるなら、大小さまざまな「出会い」と「別れ」ってことになるのでしょうが、この小説内ではそれらはドラマティックでもドラスティックでもありません。もとい、小説内の人物たちは、ドラマティックかつドラスティックに上下するのですが、それがちっともドラマティックでもドラスティックでもないものとして描かれている、というほうが正しいでしょう。


 おそらくそれは著者の視線に、どこか覚めた/冷めた部分があるから、そしておそらくこの乾いた直接的な文体も、著者そういった視線から生まれたものだと想像します。ただ、著者のこの覚めた/冷めた視線は、ヒトが-生きていく-こと を見下すものではない。否定をしない、ただ肯定もしません。結果、この小説は、シニカルな方向にもペシミスティックな方向にも、過剰にオプティミスティックな方向にも振られていない。なぜならそれはおそらく、著者は自らも、駅に澱む彼らとなんら変わらないということを識っているからで、またそういう彼ら、あるいは自分自身が ただ-生きていく-こと を、きっと「けっこう、ちょっとは、すてきなこと」だと思っているから。


 駅という器を人生に見立てる。そこにヒトの生涯の縮図を描く。手法的にはそんなに珍しくはないでしょう。ただ、同じ手法をとる小説は数あれど、ここでこうしてこの本を手にしたひとりの読者が、行を追いながら、ニタリと笑ったり、ポコンと泣いたり、切なくなって人に電話をしたりしたということは、この小説は少なくとも「読者ひとりぶんの成功」は成し得ているのだと、わたしは思います。
 というわけで激推薦。本のデータはこちらへ。
AMORI IN STAZIONE: id:asparago:20041115


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