すとろんつぉ -stronzo

 ときどき発作的に大掃除をする。裏を返せば普段はあまりちゃんと掃除をしていないということで、我が家には「それはそれは汚い場所」というのが常に在る。で、本日、ガシガシと発作的掃除をしていたら、紙の獏の足がとれた。不吉だ。しかし、そもそも何で「紙で作った獏」などというものが我が家に存在しているのか。まるで当たり前のような顔をして彼/彼女は ココ に居るが、いつから、そしてなぜゆえに彼/彼女は ココ におるのだっけ。冷静になってみると、我が家と彼/彼女の接点がどうしても見出せず、彼/彼女が-ココに-存在していることのあまりの無意味さに気が遠くなりかけるが、とりあえず糊など使って治療してやることにする。


 今更ですが、異国語はむつかしいです。異国人が異国語に困ったときのために辞書なるものが存在するわけですが、また辞書の編集って本当に大変な作業だろうなーと異国にいると実感しますが、同時に、辞書が役に立たない局面というのが、実はものすごくいっぱいあるということも実感します。たとえば、ここで伊国語「すとろんつぉ= Stronzo」を、小学館の伊日辞書で引いてみる:
   1) 糞、大便
   2) バカ者、いやな奴、憎むべき人
 1も2もともに「(俗)=俗語だよん」というマーク付きです。これだけ見ると、これはあまり口にすべきではない、強めな罵倒の言葉のように想像されます。それはそうなんですが、伊国人は、とりわけ私の周囲の女性の友人たちは、けっこーぽんぽん使っている。気がする。もちろんカジュアルな会話の場に限って、ですが。して、この語が飛び出すとき、話題のまな板の上で切り刻まれているのは、たいてい「(誰か特定の)オトコ」で、つまり『あのオトコは すとろんつぉ だ』とゆーかたちで使われる。ここで、小学館をそのままもってくると『あのオトコはバカ者/いやな奴/憎むべき人だ』ということに、成る。
 彼女らがこの語を使って、誰か特定のオトコを罵倒してみせるとき、それがストレートな掛け値なしの本格的な怒りをともなう「罵倒」である場合もあります。ストレートに掛け値なく本格的に怒りをもって罵倒されるべき輩が、この国にはおそらく山ほど存在していますから*1
 が。ややこしいのは、この罵倒には「でも、なんだか憎めないのよね」という暗黙の「続き」がある場合も多かったりするからで、つまり日本語にしてみると「あのオトコはバカでどーしよーもないんだけど、なんだか憎めないのよね」とゆー感じでしょっか*2。こうなるとこれはもう罵倒のかたちをとった愛。力点は、口に出されてはいないにも関わらず「なんだか憎めないのよね」のほうにある。で、私感ですが、私の周囲では、この後者の使われかたをするほうが実は多いような気がします*3
 どんな言葉でも文脈や背景や文化や習慣その他もろもろがあって初めて立つのは当然で、「なんだか憎めないのよね」が辞書に書かれていないのも当然なわけですが、そんなこんな回りくどく考えだすと「異国語を学ぶ」とゆー行為の果てしなさ、「異国語を使って仕事をする」とゆー行為の傲慢さに、またしても気が遠くなりかけます。


 実は私自身、伊国という器にまぎれこんだ「紙で作った獏」なのやもしれぬ。などと。

*1:異論があるかたコメントください。正します

*2:異論があるかたコメントください。正します

*3:異論があるかたコメントください。正します。くどいって