デヴィット・リンチの展覧会

師走の波に完全に飲み込まれ、ここに何かを書く気力がおきず。読まなければいけない資料が山ほどあり、会わなければいけない人がたくさんいて、飲まなければいけない酒をせっせと消費しつつ、しかも滞在許可証関連の戦いがあり、もうどうでもいいから早く年よ明けてくれといった気分の合間をぬって巨匠ペアと連れ立っていったデイヴィット・リンチの展覧会。10月の頭から来年1月8日まで、ミラノ市内のToriennale(トリエンナーレ)で開催されている。


この人の映画はほとんど観たが、彼がどんな生い立ちと経歴をもっているのかは知らない。というかあまり興味もない、というかあまり知りたくない。うまく言えないがその背景を知らなくていい創り手さんというのがいる。彼もそのひとりだ。この展覧会を観て、さらにその感を強くした。まず、多産なのである。レオナルド・ダ・ヴィンチが遺した美-技術品を観たときも「レオナルド・ダ・ヴィンチは"ひとり"ぢゃない」と勝手に信じ込んだが、デヴィット・リンチもまたしかり、ナポレオンのごとき睡眠時間で起きてる間はずっと「創る」ことばかり考え、かつ「排出し続けて」いなければ、たかがひとりの一生で(しかもまだ生きててさ)あれだけの作品はできまい。そしてそんな人生は、凡人からすれば頭がおかしい。


今回の展示は大規模で、大判のキャンバスに描いたというより絵の具を打ち付けたようなコラージュが20点ばかり、写真、部屋を模した巨大な立体、ハイヒールを使ったよくオブジェ、実写とアニメの映像、音楽、そしてさまざまなものの上に書き付けられたスケッチと実に盛りだくさんだ。「ブルーベルベット」の脚本の上にも「ツインピークス」の脚本の上にも、授業中にガキが書くような、しかしこんなものを書くガキがいたら確実に問題児扱いされそうなスケッチが描かれていてわらった。「あの映画の脚本がこんなことに!」というおかしくもトホホな気分である。映像もこれがまた長い。すべての小品をみたらおそらく3時間ぐらいかかることを巨匠が発見し、すごすごと映写室を後にした私たちであった。


そしてそのすべてが「よくわからない」。作品としてどうなのかとか、何が言いたいのかなどということは、私にはまったくわからなかった。観ていて喚起されるのは「怖い」「汚い」「眠い」「きれい」「速い」「痛い」「おかしい」などなどという、「い」で終わるひとことで表せるような、というか「い」で終わるひとことでしか表せないような感覚的なものばかりである。


だからこそ、このひとは、なんだかまったくわからないけど「凄い」人なんではないかと。