この所有欲ってばさ

なにかとても大事なものがあったり、誰かとても大事なひとがいるとき、それを「ひとりじめしたい」という想いがふと心をよぎる、長く生きてれば誰しも、一度や二度はそういうこともあるんじゃなかろうか。ただ、長く生きてれば誰しも、それがいかにバカバカしいことであるかに、どこかの時点で気づくもんじゃなかろうか。モノはともかく「誰か」を「ひとりじめする」などそもそも不可能なわけで、だからそれを目指すのは不毛、つまり不幸でしかない。若気の至りでトチ狂うことはあっても(ワタシモ-アッタサw)、ある時点でそう気づかないと、ヒトはだからずっと不幸なまんまである。そして「彼」が不幸なだけではない。周りにとっても迷惑である。


ひとりじめしたい。この想いにはよく「所有欲」という言葉があてられる。そしてこの所有欲が外に向けて発露したとき、それはよく「嫉妬」というかたちをとる。そして、嫉妬とは、当事者間だけでやりとりされる感情ではない。ときにまったく関係のない悪気のない第三者までをも巻き込む。関係のない悪気のない第三者の立場にいざたってみると、これは本当に誠に「大迷惑だ」。


伊人は嫉妬深いとよく言うが、もちろん個体差がある。個体差はあるが、総じて嫉妬深い人が多いような気はする。いや、正しく言えば「嫉妬という感情を隠さないひと」もっと言えば「嫉妬という感情をコントロールできないひと」が多い気がする。カップル間に限らない。「友人のとりあい」という実にくだらないことまで勃発する。そんな渦に巻き込まれた日には、あまりにくだらなくて情けなくて涙が出る。もー勝手にやっててちゃぶだい(死語)。


かてて加えて。その所有欲を満足させるために、嫉妬心を拭い去るために、彼らがとる方法というのがまためっぽう子供じみている。「常に一緒にいる」でなきゃ「数分おきに電話をする」。現前しさえすれば安心(という気になる)。単純かつ短絡的なのだ。


そうやって一部の(多くの?)伊人は、決して満たされ(るはずが)ない所有欲に端を発する、出口のない狂騒的な喧嘩を繰り返しながら、ずるずるべったりの時間をだらだらと過ごして彼らなりの安心を得る。この繰り返しを、このエネルギーを他に使えば、国も個人も富み栄えると思うのだが、どうやらそういう発想はないらしい。しかしこの事態は、所有欲を向けられる側、嫉妬をされる側にも問題がある。言うまでもなく、その所有欲に、その嫉妬に「つきあっちまう」からだ。こうして彼らは共に大人になれないまま、狂騒的な喧嘩+ずるずるべったりを繰り返しつつ生涯を送る。


わたしは、降りますよ。そんなに暇ぢゃないですから。