気力と時間とネタと

この三拍子が揃わないとこのブログは更新されませんw。


ほぼ3週間ぶりに我が家に帰ってきたらば台所の水道から水が出ないという由々しき事態が待っていたので現在は水道屋を待っている。そんな話でこの空間を無理矢理うめる気もないのだが、心の揺れにつながる受信器官をできる限りオフにして働いていたため、久しぶりなのに書くことが何もない。仕事のときはマシンと化する。いちいち心を揺らしていては身体も保ちません。とくにある一定の期間、自宅を離れるようなお仕事のときには。


そこを無理矢理ネタひとつ。藤原新也のブログをはじめ、あちこちのブログで「新風舎」の商法が話題になっている。「本を出すのにお金を払う」のは個々人の趣味だが、払ったお金が正しく使われていない=悪用されているのであればこれは問題だろう。ただいずれにせよ、騙されたと嘆く方々には悪いが「本を出すのは比較的簡単、本を売るのは至極困難」という現状認識がないがゆえの悲劇なのだと私はおもう。


数週間前から「小説はもう文化としての役割を終えつつある」という知人Tの言葉が頭の中をまわっている。演劇が文化の中心であった時代は終わり、映画が文化の中心であった時代も終わり、落語も蒔絵も歌舞伎もみんな時を経るにつれて「古典-伝統芸」になってしまったことを考えれば、小説が一部の好事家のためのマイナーな文化になる時代が訪れることも決して不思議ではないのだが、なぜか今までそう考えたことはなかった。恋は盲目、自分が本好きのせいかもしらんが。


実際、ニポンでも伊国でもおそらくどこでも小説はどんどん売れなくなってきている。物を書くしか芸のないわたしは、今後の逝き方を考えなければいけないなぁ。