[伊国}英語圏のひとたち

は「外国語の習得率が低い」というニュースをどこかで読んだが、そんなのは当たり前で、誰がどこで決めたか知らないが、今のところ英語は世界共通語であるかのように扱われているから、英語圏-外のひとたちは、旅行でも商売でも自分の国から一歩外に出ようと思ったら、とりあえず外国語=英語を学ばなきゃいけないように世の中はまわっている。理不尽だ。理不尽だから「英語圏のひとたちは外国語の習得率が低い」という話が巷でなされるときは、嫉妬と羨望と揶揄が含まれていることが多い。


ただ。ニンゲン「必要に迫られる」ことが、ひとつの大きな原動力になるとしたら、外国語の習得ということに関して、英語圏のひとたちは不幸だともいえる。てなことを、米国人の友人Gと話していて実感した。オハイオ生まれの彼女は、3ヶ月前にイタリアに来た職探し中のカメラマン。目下の悩みは「伊語がうまく話せないこと」だ。3ヶ月でべらべらしゃべれたらそりゃ天才だから、これはこの国に住む異人すべてに共通する悩みともいえるのだが、しかし。彼女の場合は、よっぽど気合いを入れて「英語を話さないようにしないと」今後の上達も見込めない、そこに不幸がある。私たちニポン人が、よっぽど気合いを入れて「伊語を学ばないと」この国で生きていけない(注:比喩ではない)のとはまさに正反対だ。理屈だけ聞くと「当たり前なにをいまさら」な気がするかもしれないが、この差は本当に本当に大きい。


想像してみてほしい。ごく簡単なシーン。たとえばミラノで外出先からホテルに戻り、自分の部屋の鍵を受け取りたい。英語普及率が低い伊国ではあるがホテルは国際的な場所であるからして「トゥエンティフォー」と言えば、おそらくどこでも24号室の鍵がすんなり出てくる。しかし。これが「にじゅうよんごうしつ」になると、絶対に-確実に-120%の確率で通じない。対話の相手はそれが数字であることすらわからない。くどいようだが、絶対に-確実に-120%の確率で理解されない。相手にとってはそれは意味不明な音声でしかない。この「圧倒的な通じなさ」、それが外国語というものだ。だから私たちニポン人は「トゥエンティフォー」もしくは「ベンティクワットロ」という伊語を必死で憶えなければいけない。でなきゃ、今宵はお部屋で眠れない。


「にじゅうよんごうしつ」がコミュニケーション手段としてまったく役にたたないという圧倒的な事実と、「鍵を受け取れないと部屋で眠れない」の延長線上にあるすべての切実さ、それこそが異国で異国語を学ぶことの原動力になるのだとわたしは(経験上)おもう。そうやってまずはみな、食う寝る買う住むに困らないだけの語学力をつけていく。そうしなきゃ生きていけない。そしてそこから先、さらなる上達をするかしないか、そのモチベーションは人によってまちまちだ。個人的なことを言えば、わたしが現在も伊語とせこせこと闘っているのは仕事のためではない。ひとえに「友人に自分の思っていることをできるだけ伝えたい-友人が何考えてるのかできるだけ知りたいから」「本が読みたいから」それだけ。そのふたつが欠けた生活は、わたしにとっては「生活」ではない、つまりここにあるのも切実さなわけだ。


閑話休題。もうひとつ、「母国語を話さないように注意する」ことは「異国語を学ぶ」ことより大変だ。何か伝えたいことがあるとき、目の前に日本語がちゃんとわかる人がいたら、伊国にいたってわたしは迷わず日本語を使う。当たり前。そのほうがラクだからだ。そういうわけで、友人Gは悩んでいる。でも彼女は、事態を改善するにはどうしたらいいのかわかっている。だから、複数の伊友人と一緒に飲むときも、必ずわたしの隣にやってくるのだ。英語の不自由なわたしの横に...w。