邪魅の雫

読了。「世界」と「社会」と「世間」のお話。うん。よいんだけど。後半、なんだか2時間ドラマのオチぽくないですか。ストーリーについての云々は置いても、前作オンモラキノキズ以降、作品から「昭和30年代の香り」がしなくなったように思う。それがまず残念。などと好きなことを書いているのだが、いいのだ。本作品で京極堂もゆっている:

「(前略)テクストをどう読み取ろうと、どんな感想を抱こうと、それを何処でどんな形で発表しようと、そりゃ読んだ者の勝手であって書き手がどうこう口を出せる類いのものじゃない。書評家なんて一読者に過ぎないのだ。小説は読まれるために書かれるものだし、読んだ者の解釈は凡て正解だ。小説の場合、誤読と云うものはないからね」(157頁)


さらにこうもゆっている:

「だから、作品評は確乎り作者と切れて成立しているじゃないか。なら君がそんなものを気にする必要は微塵もないだろう。作品は書いた時点で君のものなんかじゃないのだ」(153頁)


小説だけじゃなく、なにかを書いて発表するとき、いや書くものに限らない、なにか作品を発表するとき、いや作品に限らない、考えや考えかたや感情や能力など「とにかく自分が持っているものを人目に晒すとき」、この京極堂の言葉をふまえておくと、余計なところで落ち込んだりせずにすむ。また、人に余計な攻撃を与えずにすむ。さらに、だめな上司連合恋人友人親などを見分けられる。と私はおもっている。


たとえば仕事で失敗をして誰かから非難罵倒叱咤される。こんなことは仕事をしていれば必ずあるわけだが、このときに非難罵倒叱咤されるべきは「その人がした仕事」であって、「その人というニンゲン」ではない。非難罵倒叱咤される側も、そしてする側も、そこはきちんと分けなければいけない。と私はおもう。分けることができず、分けるという発想がないがゆえに「仕事の失敗」に「人格攻撃」をする、「人間関係のある局面での失敗」において「そのある局面」を取り上げるのではなく「人格攻撃」に出る、それは飛躍だと。そんな権利はあんたにゃないよ、と。


そしてもし、上司連合恋人友人親などがそーゆー飛躍マンであったら、せめて受け止める側だけでも「ちゃんと分け」て、(関口巽のようにw)必要ないところまで落ち込まないように、自分を守らなければならない。と私はおもっている。これは開き直りでは、ない。反省すべきところを、ポイントをずらさずちゃんと反省するためにも、そして今一度ひっくり返すが、反省すべきところを、ポイントをずらさずちゃんと反省させるためにも、おそらくこの「分ける作業」は必要なのだ。


てなことを、人生のある時点でイタタな目に遭って学習したわけですがw。