自分を嗤うための第三の眼

昨日、伊国の歴史書の紹介文で「歴史書を読んで高笑いしたのは初めてだ」と書いた。繰り返すが、このいたってまじめな目的で書かれた歴史書は、内容もいたってまじめなれっきとした歴史書なのだが、ところどころ爆発的に笑える。なぜか。


本の中で紹介されている事実そのもの(すなわち伊人の行動や言動)がオッカシイから。それはもちろんそうなのだが、おそらくそれだけではない。私はこれを読むうちに、本の向こうにクックックと嗤う著者の顔が見えてきた。つまり、このいたってまじめな歴史書のいたってまじめな著者は、自国の歴史を書きながら、おそらく、自国民すなわち伊人の「ダメぶり」を心のどこかで嗤っているのだ。だからこの本はオカシイのだ。


自分や自国のダメぶりを客観的に眺め、「あーほんとにもーしょーがないわよねー」と自嘲の笑いを飛ばしつつ、そこにユーモアという添加物を足して、万人に伝わる笑い(のネタ)へと転化する。私が思うに、伊人というのは民族的にこれが得意なひとたちだとおもう。先日ここで紹介した米原万里氏も、同じようなことを語っている。

(前略)自分を、あるいは自国民をカリカチュアライズできる国民、自分と自国民を突き放して第三者の目で見据え、自己の欠点を笑うことのできるほどに成熟した国民は、余裕がある。しなやかで強い。その方面に優れた素質を示した民族と言えば、愚見では、ユダヤ人(試みにユダヤ・ジョーク集を一読されるとよい)、それに、イタリア人とロシア人ではないだろうか(後略)


しなやかで強い、かどうかは知らないが、自分や自国の欠点を「自分で」眺め、それを「自分で」嗤ってしまえれば、たしかにそこにはある種の余裕が生まれる。自分や自国の欠点を「他人から」眺められることに対して、キリキリ-ドキドキ-カッカとしなくていいからだ。しかしその一方で、欠点を嗤いに転化して処理することに長け慣れると、恥や反省や危機感などがどんどんと薄れ、結果、「客観的な視点とあふれるユーモアのセンスゆえに成長や向上がとまる」こともありうる。そして、伊国や露国など、国としてまさにその典型ではあるまいか...。