推進力と破壊力

は同義なのではないかとリグリアの海を前にしてふと思った。2泊3日で7人の伊人とリグリア州のデイバ・マリーナという非常に地味な街へ泳ぎにいき、へろへろで家に辿り着いたわたしである。


伊人が群れ集うと往々にして物事は一向に前に進まない。たとえば「家から出かける」という実にシンプルな作業に、さんじゅっぷんもよんじゅっぷんも、ときにはいちじかんだってかかる。「家に帰る」「ご飯を食べる」「ちょっと買いものにいく」「寝る場所を決める」などという作業も同様だ。伊人の群れはカメの群れ。そして、地球はどんどんまわる。


ただ思うに、これは彼らの多くが「マイペースだから」ではない。「勝手だから」でもない。「基本的にはマイペースで勝手なんだけど、そうでありながら、自分以外の人がどうしたいかを常につい考えてしまうから」だとわたしはにらんでいる。しかしその裏にあるのは『他人の気持ちを慮ろう』という意図だけではない。『なにかを決定するという責任を極力さけよう』という思惑が含まれている。このヒトヒネリ-フタヒネリが、彼らをカメ化させるのだと。


そんな中に、ときどき、異常に推進力のあるカメが出没することがある。つまり『他人の気持ちなど考えず』『なにかを決定しても責任など屁のカッパ』というカメである。群れからしたら迷惑である。しかし物事は確実に前に進んでいく。倍速で。しかしそのやり方が無茶なので、周りはぶんぶん振り回され、方々で軋轢が生じちゃったりして、ときには巧くいくモノもいかなくなり、そもそも巧くいかないモノは崩壊する。今回の2泊3日にもそんなカメが一匹いた。私をこの旅に誘った張本人である。


日頃から親しくしている人でも、旅行という時-空間の中ではまた別の側面が見える。今回、恐るべし推進力=破壊力を天然で発揮する友人を眺めながら、誰かに似ているとおもった。榎木津礼二郎、あのヒトである。京極堂がよく榎木津を指して「こんなモノは友人ではない」と口にするが、その気持ちがよくわかった。


最後のパラグラフの意味が分からんひとは、京極夏彦京極堂シリーズを「姑獲鳥の夏」から読む。はい。