ドライフラワー

何かの記念や親しい人からもらった花をドライフラワーにするか否か。悩みどころだ(て、そんなに花などもらったことないけどさw)。もともとドライフラワーというのを好まない。ひとつに、置く場所に困るから。古今東西、わたしの部屋にドライフラワーがハマるような空き地はない。ふたつに、捨てられずに困るから。なにせミイラなわけで腐らず痛まず半-永久的に在り続ける。永久的に残るものは、何につけよろしくない。そして何より、やっぱり生花のほうがきれいなのだ。なのだけれども、わたしは生来のケチである。


暖房のきいた部屋の中では、可憐な花も刻々とみるみると醜くなってゆき、花などもらうとそれはうれしいから目にみえるところにドカンと置いたりするのだけれども、だからこそ、その醜くなっていくぶりがイヤでも目につく。そして焦る。「やばい、もう終わりか?終わるのか?」。花の命は短いからこそよろしく、散るからこそ美しいなどとは言うのだけれども、わたしは生来のケチである。


というわけで、趣味に反して大量のバラを宙吊りにしてしまった。しかしその前にも、ひとつ大きな葛藤があった。きれいなドライフラワーをつくるには、きれいなままのバラを乾かさねばならず、でもギリギリまで生花のウツクシサを愉しみたい、となると「一体いつ、どのタイミングで、わたしはバラを宙づりに処するべきか」。花瓶から出したり、また戻してみたり、ちょと垂れてきたバラの頭を指で つつ と持ち上げて「もすこしいける」などと独りごちてみたり。言うまでもなくこれはケチの所作である。


吊るしたのはいいが、やはりドライフラワーはよろしくない。かたちを留めているものが、喜びや幸せの象徴であるうちはまだよいのだが、それがある日「かつて嬉しかったり幸せだったしたりしたことの切ない象徴」に変わらないとは限らない。となったらば、しっかりかたちがあるだけに始末が悪い。写真などその典型だ。だから写真は撮らないがよく、思い出のモノなどできるだけ少ないがよく、花は潔く枯らすがよい。しかし、わたしはどこまでもあくまでもケチなのである。