宴の始末

ふう、やっと戻ってきました。1週間前、お酒で大失敗をして大失態を演じて大醜態をさらして、それ以降更新もせずになにをしていたかというとだ。「ひるは馬車馬のように働き/夜になると酒場を徘徊する」という1日を、これ以上ないぐらいキマジメに正確に繰り返していた。わけだ。なんのことはない、大失敗に大失態に大醜態というトホホな経験をしたにも関わらず、なあんにも反省していない。わけだ。というよりおそらく、ひとたび恥をさらしてしまったら、なあんにも怖いものがなくなってしまった。というほうが正しいだろう。反省するだけサルのほーがまし。


そんなわたしでもとても心配していたことがひとつあった。大失態と大醜態を「その目でみていた友人たち」が二度と一緒に飲んでくれないのではないか。ということ。もちろんこれは人にも寄るだろうが、もっと大枠で「お酒で失敗した人」を「この国の人たちがどんな目でみるのか」が、わたしにはまったく想像ができなかったからだ。それまで自分を実験台にする機会が --幸いにして-- なかったということもあるが、まず、この国の人が、友人と普通に飲むというシチュエーションにおいて泥酔する姿を身近でみたことがない。これまた個人差はあるが、民族的に伊国人はニポン人よりお酒に強い。それはお酒を分解する体内酵素 --なんだっけ「アドレナリン」ちがう「アセトアルデヒド」だっけ? -- の量に関係したすなわち生理的な理由によるという。さらに、これまた個人差はあるが、伊国には、正体をなくすまで飲むという習慣もない。気がする。大量のお酒を摂取はするが、ぐでんぐでんになるまでは飲まない。なる前にやめる。おそらくこれは彼らの美意識に関係しているのではないかと推定する(データなし)。


そんな国でだ。ある夜とつぜん生き恥さらした女とは、どのように扱われるのか。やっちまったことは取り返しがつかないから、ならばせめて宴の始末(By京極夏彦)。まずは謝ったさ。でもメイルでね。そこは小心者。返事はなかった。だから電話したさ。小心者だが意外と諦めが悪い。でも受話器とってウロウロと悩んださ。さて、再度の謝罪をするべきか/もう謝ったんだから何事もなかったかのように振る舞うか。つまりこれは「謝罪の電話」なのか「偵察の電話」なのか。ニポンにいたら、私は80%ぐらいのケースではきっと前者を選ぶね。しかしここは伊国。あんまりぐだぐだと過ぎたことを言うのは、過ぎたるは及ばざるがごとし、になることも多い(と経験上おもう。もちろんニポンでもそうですが 程度の違い はある気がする)。などとさんざん悩んだ挙げ句、電話の第一声は、


「きのうは楽しい夜をありがとう」


....わたしは なにを ゆっているのだ。相手はわらったさ。ヤタ、わらわせたぞ。でも、わらわせていいのか。これはどんなわらいなのだ。相変わらずわたしは何がプラスで何がマイナスなのかがまったくわからない。こういう事態になると「伊国人は表向きは愛想がいいが心の内で考えていることは別」「いや伊国人はストレートだからその言動をそのまま信じていれば間違いない」などという、これまでに耳にしたまったく根拠がなく役にたたない「カテゴライズ好きなひと用 - 矛盾だらけの - 伊国人モノサシ」(在伊日本人製作)が無意識に頭の中で伸び縮みを始めてしまう --実用してみて思ったのだが、この類いのモノサシはやっぱりまったく役にたたない。とにもかくにも世間話で電話をきった。結局なにもわからなかった --ところでこういうときに「わたしのこと呆れましたか/縁切りですか」などというダイレクトな質問は、国を問わず、間違ってもしてはいけない。とわたしはおもう。だって相手は困るでしょ。こういう質問に「ハイ」って応えるのはすごいパワーいりますから。


閑話休題。結論を申し上げると、縁を切られるには至らなかったようだ。その後もちょくちょくと酒場に同行させてもらっている。すなわち「セーフ」ちうことだろう。いやむしろ、酒場への誘いが以前より増えたような気がする。すなわち「超-セーフ」だったということだろうか。わからん。ともあれわたしの最大の心配事は消えた。これでまた安心して飲める。


異国にいると「文化の違い」は感じ・考えなくてはやっていけない。けれども「文化の違い」ばかりを感じ・考えていると「森を見て木を見ず」的な思考/思考方法に冒されがちになる。要は、ひととの関係を構築修繕変化終了云々させるためにわたしがそのときそのつど相手にする相手は、「伊国人」ではなく「個人」なのだと。そこには何国人もない。今回の宴の始末で改めてそう思わされたわたしであった。まる。