そして読書 --sto leggendo...

本を読む時間がありません。映画をみにいく時間もない。少し時間があると眠ってしまう。なぜ「ほどほどに働く」ということができないのでしょっか。そしてまた「ほどほど」とはどのぐらい? そんなことを考えているとまた眠ってしまう。


 てな感じで、Giancarlo Marinelliの2冊目「AMORI IN STAZIONE」がなかなか前に進まない。3分の1ぐらいのところでウロロウロロとしている。先に紹介した「DOPO L'AMORE」よりも圧倒的に私の好みなのだが。
 ところで、この本の伊国語は見事に壊れてます。少なくとも、伊文法を必死で学んだ異国人に、まったく親切でない。動詞はないし、パラグラフごと時制がバラバラだったり、ひとつの文章がときに1ページ以上続いたりする。まぢめなひとはグルグルするそして一生おわらない。
 私にこの本を紹介した友人は、このMarinelliの文体に対して「Crudo」という形容詞をあてていました。直訳すると「厳しい」とか「露骨な」とか「剥き出しの」ってことですが、たしかに言葉遣いは、唐突で端的で直接的です。婉曲しない、無駄な形容がない、事実だけが淡々と並ぶ。だけれども、そういった文章が寄り集まって、ひとつの節を成したとき、ひとつの章を成したとき、さらには1冊の小説となったとき、その全体から受ける印象はいつのまにか、婉曲しまくりの、形容できないものまでをも含んだ、事実の裏側まで想像させるモノに変わっている。
 そしてきっと、その変化の過程には「読者自身」が大きく関与/参加しているのじゃないかと思われます。平らかに言えば、それぞれの読み手が持つ 何か を喚起する力が小説の側にある。ただ一方で、その「壊れた文章の寄せ集まり」は、 何か を持つ読み手がそこにアクセスすることで初めて「小説」たりえる。回ってます。循環してる。


『読者あっての小説』あるいは『読者のアクセスを勘定に入れた/期待した小説』。そう言葉にしてしまうと、まるですべての小説にあてはまることのよーですが、私は、この AMORI IN STAZIONE は、そういった ”コミュニケーション” にちゃんと成功している「数少ない」1冊だと思います。ってだから先を読まねば。あーねむい。